ごあいさつ
寒さ極まり始める令和4年、師走の頃、新たに立ちあげました「株式会社もりしま」は「寛閑観」の屋号のもと、近江八幡市の旧市街地に精肉店を開店いたしました。選り抜きの近江牛肉を中心に取り揃え、より美味しい状態のものをより美味しいカットで、を大切にしながら、スタートさせて頂きました。その後、東京にあります滋賀県のアンテナショップ「ここ滋賀」にて、レストランを監修、プロデュースしております。
今年、令和5年には同じく近江八幡市にて、より広く、より深く、よりゆったりと近江牛肉の創意工夫を凝らしたお料理としてお愉しみ頂きたいとの願いから、新たな場所をつくらせていただく計画でおります。生成変化を受けいれ、楽しむ、なかんずくはそれを積極的につくりだす、そんな進取の気性を胸に、お客様とともに「これから」を育み、つくりあげさせて頂ければ、それが当社の切なる願いです。
「寛閑観」。かんかんかん。何かが鳴っているような不思議な響きをもちますこの屋号。実は、とてもユニークで、わたし自身とも縁ふかい伝説の料亭『春岱寮』が、かつて戦前に東京麻布の地で出版していた会員向けの月刊誌の名前なのです。しばし由来について、そのヒストリーに触れさせてください。
先祖森嶋留蔵。その兄に竹中久次がおりました。江戸末期から明治初頭の、まだまだ牛肉が食用としては出回ってもいない頃、つまり人々の仏教信仰のもと食べられることも想定していなかった時代のことです。いまはトラクターがその代役をしておりますが、田畑を耕耘するための手段として、当時は牛が使役されておりました。
さて、歳月がたてば、牛も年をとります。老廃牛と呼ばれるこの牛に着目し、これをビジネスに結びつけたのが久次と留蔵兄弟になります。文明開化の波をうけ、外国人居留者が横浜港などで増大。どうやら彼らは牛肉として牛を食べるらしい。そこで兄弟は類まれなフロンティア精神を発揮し、陸路二週間余りをかけて、東京へ向けて曳行します。
弟が近江国からその出荷を担い、兄が「米久」という屋号のもと牛肉卸売業と牛鍋文化を開花させます。列車や電灯、そして明治の文明開化の象徴として「牛鍋」がいまもなお教科書に載るほどのインパクトがあったのも、東京では牛鍋屋さんがひしめき合っていたほどですから頷けると思います。
少し時代が下ります。竹中久次の子孫で、「米久」の新組織にして会員制美食倶楽部「春岱寮」が大正末期から戦前まで麻布で展開されました。ユニーク、とさきほど申しましたのは理由あってのことです。実は、東京大空襲で焼失する前には、かの北大路魯山人が主宰する「星岡茶寮」のライバルとみなされるほどの質の高い料理文化を誇っていたのです。
器は加藤春鼎の作陶で統一され、設えも当時としては最先端、料理の最大の特色として「近江牛」を「寿喜焼(すきやき)」だけでなく、懐石料理のなかに組み込むという大胆さ。
今の言葉でいうと、「近江牛」がブランド化されていく過程には、東京という一大消費地があったこと、かつインフラの整備、つまり敷設されたばかりの近江八幡駅から東京へと出荷される牛の頭数が全国で一番多かったこと、そしてそれを消費される空間が他に例のない「おもてなし」の心で整えられていたことが深く影響していたのでした。
さて、私どもは、「近江商人」ゆかりの地、まさにそのお膝元である近江八幡にて商いをスタートさせていただきました。規模の大小を問わず、現代にこそその価値が見直されはじめている「三方よし」(売り手よし、買い手よし、世間よし)のスピリット。
彼ら先人の英知に大いに学びながら、まずはお客様にこそ幸せをお届けし、そして地域とのつながりをより太くしっかりとしたものに、最後にそれらがめぐりめぐって自分たちに喜びをもたらせてくれるものと信じております。
株式会社 もりしま
代表取締役 森嶋 篤雄